与那国島 2

久部良ハーリーと久部良バリ

6月14日(旧暦5月4日)、沖縄各地で海神祭(ドゥガヌヒ)が行われ、ハーリー舟競争が行われた。ぼくは偶然にも久部良部落の祭を見物することができた。

ハーリー舟は、かつてカナダのクイーンシャルロット島の博物館でみたインディアンたちのカヤックと何となく似ている。舟先に子どもが座っているのが可愛い。

競技が始まると、浜では大人や子どもたちの、太鼓、鉦、かけ声、踊りでの応援が始まった。この日、島内の学校は休校で生徒たちは先生に引率されて参加していた。

久部良港の北側の丘の上に、久部良バリという名所旧跡がある。昔、人頭税の取り立てが厳しかったころ、人減らしのため妊婦たちをここに集め、岩盤の割れ目をジャンプさせ、無事に向こう岸に飛べた者だけが生き延びたのだと、伝えられている。

覗き込むと岩盤の割れ目は結構深い。昔は、この割れ目はもっと深く海までつなかっていたという。

人頭税は明治36年に廃止された。この割れ目は、八重山地方の、島津藩と琉球王朝による二重支配の厳しさの象徴とされている。

だが、この悲話が事実とすると、島の妊婦たちを、ここに集めてジャンプさせたのは、王朝から派遣されていた士族たちだったのだろうか。そうではないだろう。人減らしは人頭税政策に反する。おそらくは、生き延びるために、地元の人たちが、やむにやまれず、執行したのであろう。だとすると、クブラバリは、単に、島津や中山による苛斂誅求を物語っているのではなく、当時の在地の人々自身の非合理性も示しているように思われる。

しかし、この悲話には、反対説もあるという。岩盤の裂け目は、ぼくを、与那国の歴史へと誘う入り口のようだ。

久部良バリから額を上げ目を転じると、そこには台湾方面へ向けた雄大な海原があった。与那国は絶海の孤島と言われもするが、111キロ先には台湾かある。この地理的位置は、この島にどんな文化的影響を与えてきたのだろうか。

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