大人たちの沖縄平和学習
    ――座間味島の烈婦、宮城初枝さんのことなど
明楽 誠

一 二家族で沖縄に行こう

○ちょっとしたきっかけ
 七月初旬、近所の親しい友人Mさんの家でワインを飲みながら雑談していたとき、それぞれ、この夏の家族旅行の話になった。私は中一の二男と二人で沖縄へ行く予定だと言った。その時、Mさんは、一緒に行ってみたいなと言った。
 Mさんは女手一つで、小三、中一、高一の三人の子どもたちを育てている。だから、家族旅行といっても、なかなか遠出ができない、そんな思いが彼女にはあった。
 その後、少し私も悩んだが、数日後、思い切って一緒に沖縄に行きますかと、メールで彼女を誘った。すると、その日の内に返事があり、俄に二家族での沖縄となった。
○やっとチケットを確保
 当初、私たち親子は八月二〇日から三泊四日で飛行機の予約を取っていた。しかし、それではM家族との日程調整がつかないので、計画を八月三日から六日までへと変更した。だが、夏の旅行シーズンのことだから、割安のパックツアーのチケットがなかなか確保できない。結局、二家族五名の旅行だけれど、パックのチケットが確保できたのは三名分だけで、残り二名の航空券は「正規料金」で購入せざるをえなかった。それでも、とにかく、三泊四日の航空券とホテルを、出発三週間前までに確保した。
○どこに行くか
 私は、親子の触れあいをもとめて沖縄行きを漠然と考えていたが、三泊四日で沖縄のどこに行くかについては、まだ詰めていなかった。ところが、今度はM家族と一緒に行くことになったので、見学先などは当然、M親子の意向も加味して検討する必要が生じた。そのためのメールが何度も往復した。
 Mさんからのメールの中には、首里城、国際通り、石垣島、ムーンライト・ビーチ、島唄などの言葉があった。私は、これらの情報を手がかりとして、旅行のスケジュールを立てはじめた。首里城、国際通りは問題ないとしても、石垣島は沖縄本島から遠いので、今回は計画から外すしかない。次に、ビーチだが、親子ともきれいな沖縄の海で泳いでみたいという強い希望を持っている。沖縄の中で、どこが一番すてきなビーチなのかは、調べてみる必要があると思った。また、島唄を聴かせるライブハウスも調べてみることにした。
○「沖縄 ビーチ」
 サーチエンジンを用いて「沖縄 ビーチ」で検索すると、沖縄に関する様々な情報がリストアップされてくる。中には、ボタンをクリックすると、それぞれのビーチの写真が現れるサイトもあり、私は、美しいビーチを求めて、いくつもいくつもクリックしてみた。その中で、私の目が留まったのは、青い海に浮かぶコーラル・サンドが美しい、かわいい無人島の写真だった。それで早速、彼女にも、このサイトを見るように勧めた。
 この美しい無人島は、座間味島のすぐ南側に浮かぶ嘉比島とアギナシク島であった。そのサイト情報によると、座間味島の海は世界有数の透明度を誇る、サンゴ礁の豊かな海で、ダイバーにとっては有名なポイントらしい。
 那覇市からのアクセスも、那覇泊港から高速艇に乗れば、一時間ほどで渡れる位置にある。那覇から日帰りで海水浴を楽しめる距離だ。それで私たちは、早速、八月四日朝、那覇泊港を出航し夕方戻ってくる、クイーン座間味号の往復乗船券を予約した。

二 痛ましい歴史、そして宮城晴美さんの近著

○「平和の塔」
 座間味島は、沖縄本島から三、四〇キロほど西に点在する慶良間諸島の一角をなす島であり、座間味村は、座間味島、阿嘉島、慶留間島などの島々から構成されている。しかし、私は、この度の沖縄行きまで座間味の村名も島名も知らなかった。私は、座間味島とはどんな島なのか調べてみた。すると、座間味村の歴史を紹介する記事が現れた。そのサイトには、島に建立されている「平和の塔」の写真が掲載され、解説も付してあった。
 それによると、座間味島は、一九四五年三月二六日に米軍が沖縄戦で上陸した最初の島であり、「平和の塔」には、座間味村の「集団自決」者を含め、「軍民約一二〇〇余柱の英霊」が合祀されているという。さらに、建立は一九五七年三月、慰霊祭は毎年三月二六日。合祀者一二〇〇余柱の内、日本軍人は三七六名、座間味出身者は六六七。後者の内訳は軍人一九六、軍属五〇名、戦協四〇二名とあった(※1)。
○「座間味島 集団自決」
 沖縄戦で島民の痛ましい「集団自決」が発生したことは、私も知らないわけではなかった。しかし、その「集団自決」が、この美しい座間味島でも発生していたことを初めて知り、それまでの美しい座間味のビーチに行けるという、私の浮ついた心は、ぐっと重苦しいものへと変化し始めた。
 私は、再び、「座間味島 集団自決」でサイトの検索をすると、そこには、昨年一二月に出版された宮城晴美さんの『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』(高文研、二〇〇〇年)に関連する記事が、いくつか現れた。中には、この本の概要を紹介した記事もあった。私は、早速、高文研に直接電話して、宅配便で送ってもらうことにした。翌日夕方には本が到着し、私は一気に読んだ。
○母から依頼されていた出版
 晴美さんの母初枝さんは、一九二一(大正一〇)年に座間味島で生まれた。米軍が島に上陸したとき彼女は二四歳で村役場に勤務していた。女子青年団員の一人として座間味駐留の日本軍と行動をともにし、最後には米軍の艦砲射撃で負傷し、遂に投降した。
 初枝さんは、戦後になり、一九六二(昭和三七)年に『家の光』に自らの戦争体験を投稿し、翌年同誌に掲載された。そして、一九九〇(平成二)年になって、初枝さんは、晴美さんに一冊のノートを託し、いずれ機会をみて、「歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表」(同書、九頁)するように依頼した。初枝さんは、その半年後、同年一二月六日に死去した。今回、晴美さんは、母との約束を果たすために、この本を出版したという。
○本の構成と副題
 この本は四部で構成されている。第一部は、「母宮城初枝の手記――「血ぬられた座間味島」、第二部は、「「集団自決」――惨劇の光景」、第三部は、「海上特攻の秘密基地となって」、第四部は、「母・初枝の遺言――生き残ったものの苦悩」と題されている。
 これらの内で、初枝さんの文章は第一部だけで、それ以外は、娘晴美さんの文章である。しかし、この本出版の最大の狙いは、何といっても第一部の初枝さんの手記にあることは、副題として沖縄・座間味島「集団自決」の「新しい証言」と記されていることからも分かる。
 今回、晴美さんが紹介する母の手記には、座間味島の「集団自決」について、初枝さんが以前に述べた「証言」とは、異なった箇所がいくつかある。つまり、後ほど言及するように、かつて初枝さん自身が述べたところの、「集団自決」は軍の命令によるものだったとする「証言」が、この本では覆されている。

三 座間味の烈婦、宮城初枝さん

○「日本軍将兵の死闘の体験手記」
 まず、初枝さんの手記に書かれている内容ついて、簡単に触れておこう。初枝さんたちは、昭和一九年に至っても、防空訓練や防空壕掘りも真剣味がなく、「まさか、こんな小さな島を敵機が攻撃するなんてあるわけがないのに」(一四頁)と愚痴をこぼしていた。しかし、九月一〇日の日本軍上陸以降、この平和な座間味島は、しだいに戦場と化していく。初枝さんの手記は、昭和一九年九月一〇日の日本軍上陸から、翌二〇年三月二六日の米軍上陸、四月一七日の初枝さんの投降、そして、米軍に保護された後に初枝さんが見た、島民の惨状までが記されている。
 初枝さんは、この手記を、「座間味島の米軍攻略の模様を、私の目を通じてできるだけ克明に綴った、日本軍将兵の死闘の体験手記」(一五頁)だと述べている。初枝さんが、「将兵」というとき、その中には、座間味島に駐屯した、梅澤裕大尉率いる海上挺進第一戦隊一〇〇余名と、小沢義廣少佐が率いる海上挺進基地第一大隊九〇〇名(内、約五〇〇名は、翌年二月一六日に本島へ移動。)だけではなく、様々な形で日本軍に協力した島民たちも含まれている。
○「軍民一体」
 島民たちは、突如上陸してきた日本軍を「懸命」に「歓待」し、軍務遂行に協力した。初枝さんは、日本軍上陸から一週間後、九月一六日の心境を、「素直な島民、純真な若者たち、そして黙々と忠実に命令を全うする兵隊さんたち。第一線にあるという切迫した感じよりも、ともに戦うのだという満足感がみなぎっている毎日でした。」(一七頁)と記している。
 しかし、一〇月一〇日の米軍による最初の座間味地区空襲以来、沖縄本島との連絡船撃沈によって食糧供給を絶たれた軍隊と島民の生活は、次第に苦況に陥ってゆく。そして、一一月末には、島民の間でも南方での日本苦戦がささやかれ始める。それでも島民たちは、開けて元旦には遙拝し、駐屯部隊とともに「軍民一体となって、今年こそ決戦の年に」と必勝を祈念する。
 一月二二日には、二回目の空襲があり、下旬には座間味国民学校の御真影が、本島へと「疎開」して行く。その時の思いを、初枝さんは、「何とも言えぬ悲愴な気持ちになり、流れる涙を禁じ得ませんでした。」(二七頁)と記している。
 三月一日にも米軍による小規模の空襲があり、そして、二三日には、それまでに経験のない大規模な空爆によって、座間味部落は廃墟と化し、地区内では乳児も含め二三名が亡くなり、多くの負傷者が出た。翌二四日も同規模の空爆が続き、「今度の戦争は、どうも勝てそうにない」という思いが、初枝さんたち島民の胸中に募る。教えられている敗戦後の米軍による辱めを思うと、眠ることもできない。そこで初枝さんは、「もうどんなことがあっても勝ち抜いて貰わなければ、いや勝ち抜かなければならない。必ず勝つように軍に協力しよう」と、「女ながらも」心に誓ったという(三六頁)。
○部隊長への「集団自決」の申し入れ
 二五日、島の周囲は米軍の艦艇に包囲され、艦砲射撃も始まった。艦砲射撃は、夜になって空襲が止んだ後も続いた。島民たちは「錯乱状態」となり、それぞれの壕を出て村当局の壕へと向かい、初枝さんたちも、いても立ってもいられなくなった。その後で、初枝さんは、村の助役、収入役、国民学校長らが、梅澤部隊長のところに行き、島民を自決させるための小銃弾を要求する場面に遭遇する。
 助役は隊長に対して、「もはや最期の時が来ました。私たちも精根をつくして軍に協力致します。それで若者たちは軍に協力させ、老人と子供たちは軍の足手まといにならぬよう、忠魂碑の前で玉砕させようと思いますので弾薬をください」(三九頁)と申し込んだ。しかし、梅澤隊長は、しばらくの沈黙の後、「今晩は一応お帰りください」と、「申し出を断った」(同頁)。断られた助役たちはその場を引き上げた。しかし、助役は、役場吏員に「各壕を廻って皆に忠魂碑の前に集合するように」(三九〜四〇頁)との伝令を命じた。
 その後、初枝さんは、助役たちとは別行動をとったので、彼らの詳しい動きについては記されていない。照明弾と艦砲射撃が続く中、一端は忠魂碑の前に集まった島民たちも、結局は壕の中に避難した。
 二六日には米軍が上陸を開始した。初枝さんたち五名の女子青年団員は、隊長から斬り込み隊の別働隊として弾薬運びを命じられ、翌朝までかかって任務を遂行した。その後で、日本兵はすでに全員が玉砕したものと思い、彼女たちは手榴弾を叩いて「自決」しようと試みたが手榴弾は破裂せず、投身自殺も考えたが、すでに絶壁の下には米兵が迫っており、それも断念した。その後は、状況判断を誤り「自決」を急ぎ過ぎたことを反省し、生きることへの意欲も芽生え始め、四月一二日に負傷するまで、切り込み隊の道案内や、負傷兵の看護を務めていた。
○投降
 一二日に艦砲射撃で大腿部を負傷した初枝さんは、島民たちの米軍への投降を目撃しつつ、傷が悪化した一七日、仲間に山道を阿真部落までモッコで運んでもらい投降した。
 初枝さんは、その時の心境を、次のように記している。
 「ああ幾日幾夜、あの山あの河、この谷、この山で生死の境をさまよったことか。祖国の必勝を信じて、最期まで精根尽きる限り軍に協力してきましたが、遂に及ばず、あの山、この谷、あの畑で、彼我ともどもに無益な戦争の犠牲のなんと大きかったことでしょう。(中略)すべてが混乱の中の出来ことでした。(中略)われに返り、自分の姿を知った今ほど、戦争に対する憎しみを覚えたことはありませんでした。『もう逃げたりかくれたりするのはよしましょう。私たちの務めは終わったのよ。誰に聞かれても恥ずかしくない働きをしたんですものね』」(七一頁)
 初枝さんは、御真影の疎開後も、「精根」を尽くし日本必勝を信じて最後まで軍に協力した。その点において、彼女には恥じるところは何もない。しかし、戦争が終わってみると、彼女たちが死力を尽くした軍民一体の戦いも、無益な戦争であり、正気を失した混乱の中の出来事であった。
○凄惨な自決現場
 米軍に投降し治療を受けた初枝さんは、変わり果てた座間味部落と、各壕の中で「自決」した島民たちの様子を、生々しく描いている。中でも、村の三役とその家族を含む六七名が、一人の未遂者も出すことなく「集団自決」した農業組合の壕の悲惨さには呆然とする。三月二五日の夜、梅澤隊長のもとへ小銃弾をもらいに行った五名のうち、初枝さんだけが生き残り、助役、収入役、そして吏員の一人がこの壕で、国民学校長も近くの壕で「自決」していた(八〇頁)。最後は、初枝さんたちによる、島民や兵士たちの遺体収容作業の様子が描かれ、手記は終わっている。
○援護法と初枝さんの「証言」
 晴美さんの解説によると、戦後の初枝さんは、新たな苦難に遭遇し、「証言」問題では時代に翻弄されもする。
 初枝さんは、戦後、島民からは、「日本軍に加担したとして批判の的にされ」(二五〇頁)た。しかし、一九五七(昭和三二)年四月に座間味島で実施された、「集団自決」者の遺族や負傷者にも「援護法」(昭和二七年に施行された「戦傷病者戦発者遺族等援護法」のこと)の適用を認めるべきかどうかを判断するための、厚生省による調査の際には、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」という内容の質問に対し、初枝さんは「はい」と答えた(二五二頁)。さらに、六二(昭和三七)年には、その主旨の内容で『家の光』の懸賞募集にも応募した。その後、この初枝さんの「証言」は、日本軍が命令した「集団自決」の事例として、研究者や運動団体から注目を浴びることにもなった。そして、七〇年頃には、渡嘉敷島と共に座間味島も、「集団自決」の島として知られ、多くの人が島を訪れ、初枝さんは自宅を宿として提供し「語り部」にもなった。
 この頃、晴美さんが家族団らんの時間が少ないと不満を言うと、初枝さんは、「私には、島の悲惨な戦争体験をできるだけ多くの人に伝える義務があるのよ。戦争というのがいかに悲しく虚しいものか、決して、二度と戦争を起こしてはいけないと訴えるために、私は戦争で犠牲になったたくさんの人たちに生かされているのよ」(二五八頁)と諭したという。
 戦中、日本必勝のため軍と共に行動し「精根」を尽くした座間味島の烈婦初枝さんは、戦後には、島民の生活再建と恒久平和実現のための戦士へと生まれ変わったのである。
 その初枝さんが、「集団自決」者たちの三三回忌に当たる七七(昭和五二)年三月二六日になって、初めて「『集団自決』の命令は、梅澤隊長ではなかった。どうしても隊長の命令だと書かなければならなかった」(二六〇頁)と娘晴美さんに語り、三年後には梅澤隊長と再会して詫びを述べたのである。
 ところが、その後、梅澤さんは、初枝さんの「証言」に基づく「集団自決」は隊長命令だったという記述が、いくつかの出版物に記載されていることを知り、八五年には『神戸新聞』で自らの「無罪」を主張し、さらに、『沖縄県史 一〇巻』の記述にも抗議し、沖縄県教育委員会は『沖縄史料編集所紀要 第一一号』(八六年三月)に梅澤さんの手記「戦闘記録」を掲載し、県史における記載内容の訂正を行った。この県史における記載内容変更は、『神戸新聞』(八六年六月六日)と『東京新聞』(同年六月七日)で報じられた。

 私は、このような初枝さんの手記と、晴美さんの解説記事を読んで、俄に宮城初枝という人の生き様や思想に興味を抱き始めた。座間味島の悲惨な歴史を知り、私の心は重くなりかかっていた。しかし、戦中には死力を尽くして日本必勝のために軍ととも戦い、戦後には平和な座間味島再建のために尽くした、宮城初枝さんのたくましい生き様を知ることで、私は再び、今度の旅行で是非とも座間味島も訪れてみたいと思うようになった。

四 その他の事前学習と旅程

○その他の事前学習
 このような私の読後感を、一緒に沖縄に行くMさんに伝え、彼女にも出発までに是非読むようにと手渡した。その時、彼女からは、久米南町の図書館から借りてきていた沖縄関係の本の一冊を、代わりに渡された。それは、『母と子でみる 沖縄戦とアイヌ兵士』(橋本進編、草の根出版会、一九九七年、第四版)だった。これは、沖縄南部の真栄平(まえひら)にあるアイヌ人戦士の祭られた「南北の塔」に関するものだった。
 ところが、この本の「あとがき」には、宮城晴美さんの本と関連がありそうな記述があった。編者である橋本さんは、「八二年に国際問題となった教科書検定(閲)につき、家永三郎教授の第三次訴訟がおこされた(八四年)、重要な争点の一つは、沖縄戦における日本軍による住民虐殺と集団自決である。八八年二月、沖縄出張法廷がひらかれ、安仁屋政昭氏は大田昌秀氏(現知事)らとともに原告側証人として証言した」(一三二頁)とある。
 初枝さんの旧い「証言」は、援護法問題以降、隊長命令による「集団自決」としてマスコミや研究者に注目されてきたのであるから、八〇年に初枝さんが梅澤隊長に詫びたこと、さらに、梅澤さんの抗議による県史における記載内容の変更は、家永教科書裁判問題において、関係者にあらたな波紋を投げかけることになったのであろう。
 私たち大人は、当初、子どもたちのための夏期旅行として沖縄行きを決めたのではあるが、出発までの三週間、以上のように次第に大人たち自身のための平和学習的な様相が強まっていった。八月三日(金)、いよいよ沖縄へ。
○旅程
 第一日目は、午後、バスに乗って首里城見学。城内見学の案内は、沖縄県庁を退職されたKさんにお世話になった。私たちは、沖縄へ出発する前に、那覇市シルバー人材センターに案内人を斡旋して頂き、小中学生向けの話が出来る方を希望しておいた。しかし、いざKさんの案内が始まると、大人たちの方が熱心だった。夕方には、国際通りを散歩し公設市場で夕食。夜には、子どもたちをホテルに残して、チャクラに行き喜納昌吉さんのライブを楽んだ。
 第二日目は、那覇泊港北岸からクイーン座間味号に乗船して座間味島へ。レンタカーでコーラル・サンドの阿真ビーチへ行き、スイミング、シュノーケル、カヤックなどを楽しむ。その後で、座間味部落の「平和の塔」へ寄る。座間味部落の集落は、写真で想像していたよりも小さく、集落の奥から裏山へ通じる道を登る途中に、「平和の塔」の標識があり、そこで車を降りて、山道を少し登ると小さな尾根に出る。塔はその尾根の奥まった所に、座間味部落とその前の海を見つめながらたたずんでいた。
 第三日目は、レンタカーで沖縄中部方面へドライブ。嘉手納基地を一周し、読谷村へ。「自治」の文字が石碑に刻まれた村役場と文化センターの異様な大きさと、「読谷村伝統工芸総合センター」の名に引かれて立ち寄った、幻の読谷山花織(ゆんたんざはなうい)を復活させ展示した、ひっそりしたただずまいとが対照的だった。「像の檻」の前を通って残波岬まで行く。
 午後は、再び嘉手納基地の脇を通って本島を横断し、与那城町から海中道路を走り、火力発電所や石油備蓄基地を眺めながら、突端の伊計島リゾートまで行き、プライベート・ビーチで泳ぐ。やはり、この辺りの海は、座間味などとは比べものにならない。ビーチには、客の残したゴミも目に付き、いま沖縄のリゾートはクリーン作戦中なのでご協力下さいとの機内アナウンスを思い出し、帰りしなには子どもたちとゴミ拾いもした。
 最後の四日目。子どもたちの要望で、南部の玉泉洞王国村へタクシーで出かける。子どもたちの目当ては、ハブ博物公園だったが、このテーマパークには、琉球のガラスや陶芸の工房、熱帯フルーツ園、エイサー群舞の実演などがあり、大人たちも十分楽しめ、あやうく帰りの飛行機に乗り遅れるところだった。
 私たちは、南部のガマや「平和の礎」などへも、一日費やしてみようかと考えていたが、大人たちの事前学習と座間味行きによって、結局、今回は南部の戦争史跡巡りは止めた。

五 事後学習といくつかの疑問点

 帰宅して後、お盆休みに初めて町の図書館を利用してみた。最近オープンし四万五千冊の蔵書を備えたこの図書館には、検索すると沖縄関連の新しい図書もかなりそろっている。この原稿は、それらも参照しながら、主に図書館で書いた。以下には、今回の沖縄旅行を踏まえて、いくつかの文献にも目を通して考えたことを述べてみたい。
○「集団自決」とは
 『「沖縄魂」が語る日本 「四十七番めの日本」から見た「祖国」の危機』(安仁屋政昭・高嶋伸欣、黙出版、二〇〇〇年)は、教科書問題や家永裁判に詳しい。この本を読んでも、いまだ「集団自決」とは何であったかについての科学的解明が不十分であることが分かる。
 「平和の塔」に「戦協」として祭られている村民は四〇二名であるが、あるサイトには座間味村の「集団自決」者は三七九名(※2)であったことも示されている。したがって、この「戦協」には、三月二三日の空襲による犠牲者たち二三名も、含まれているのであろう。
 座間味村は、座間味島の座間味、阿佐、阿真の三部落と、離島の阿嘉、慶留間の二部落を合わせ、計五部落から構成されている。当時の人口は、座間味、阿佐、阿真の三部落で七、八〇〇人、村全体(銅山のある屋嘉比島も含む)で一五〇〇人くらいであった。『座間味村史 上巻』(村史編集委員会編、一九八九年)によると、座間味部落では「二〇〇人近い人」(三六三頁)が(※3)、慶留間部落の場合には「人口の半数近く」(三五九頁)が「集団自決」している。この二部落だけではなく、屋嘉比島の鉱業所でも「集団自決」が決行されようとしていたがタイミングを逃している(三六四頁)。これらの資料に基づくと、座間味村の「集団自決」は、特定の部落や場所に限定されて発生したようである。しかも、『座間味村史 下巻』に収録されている村民の戦争体験記を読むと、多数の「集団自決」者を出した座間味部落に限定しても、三月二五日に島民へ伝えられた玉砕命令の受け止め方は、決して一様ではなかったことが分かる。例えば、当時一五歳の宮里米子さんの家族は、忠魂碑前へ集合せよとの伝令を受けても、「別にそれほど深刻には考えず」、玉砕を促されても「玉砕しようとは全く考えていませんでした」(下巻、二七頁)と記している。
 これらのことを念頭におきつつ、初枝さんの手記や晴美さんの解説記事を読むと、米軍による空襲や艦砲射撃が激しくなったとき、座間味村には、思考と行動におて三つのタイプの村民がいたのではないか。一つめのタイプは、初枝さんたち五名の女子青年団員も含む、座間味村出身の「軍人」や「軍属」で、駐屯部隊とともに行動した人たち。二つめは、村三役などとその家族で「集団自決」した人々。三つめは、玉砕命令には従わず海岸近くの洞窟などに避難し生き延び、投降した人々である。
 晴美さんは、先に紹介した本の中で、
 「『隊長命令』は本質的な問題ではなかった。細胞のすみずみまにまで染み込んだ『皇国』への忠誠心、『鬼畜米英』への異常なまでの憎悪と恐怖が、結果的に住民を『玉砕』へと導いていったといえる。それは、明治以来、人々を洗脳しつづけた『国家』による住民への『死の強要』以外の何ものでもなかった。」(二七五頁)
と記している。したがって、母の「証言」は覆されても、晴美さんの「集団自決」論の本質には何ら変更はないというのであろう。
 確かに、晴美さんが言うように、当時の村民たちには、「『皇国』への忠誠心、『鬼畜米英』への異常なまでの憎悪と恐怖」とが、浸透していたのであろう。それでも、極限的な状況下での、村民たちの思考と行動は一律ではなく、三つのタイプがあったように思う。だから、村民の「集団自決」発生の原因を説明する場合、皇国への忠誠心、鬼畜米英への異常なまでの憎悪と恐怖は、必要条件ではあるけれども、決して十分条件ではない(※4)。
 特に、初枝さんの手記では、彼女たち女子青年団員五名の、最後まで諦めず敵と戦う凄まじい「精根」と、「精根」を尽くすと言いながら、結局、家族とともに壕の中で「自決」してしまう村三役の、現世否定的ではかない「精根」とが、対照的に描かれているのであり、私たちが「集団自決」について研究する場合には、このような意識の違いにも注目する必要があるだろう。
○初枝さんの皇国的平和主義
 また、娘晴美による解説記事の中には、戦後における初枝さんの皇国主義の内容について、私たちの関心を引きつける箇所がある。昭和天皇死去の日、初枝さんは日記帳に、
 「静かに更けて行く昭和の時代も、後三十分で終わりを告げようとしている  本当に激動の時代であった  たとえ元号は変わっても、戦争への思いは変わらないであろう  しかし天皇はうらめない  かえって天皇のお姿がこの世から消えるかと思うと淋しい  新元号『平成』、どんな時代になるのだろう。子や孫のために、平和な世の中になってほしい」(二七二頁)
と記しているという。
 初枝さんの天皇に対する敬慕の念は、戦中も戦後も変わらない。初枝さんは、天皇の戦争責任を免除しているのではない。責任は、天皇にも国民にもある。しかし、初枝さんは、天皇とともに無益な戦争へと突き進んで行き、遂には凄惨な「集団自決」まで発生させた、政府と国民、あるいは、軍と民の責任を思うと、「天皇はうらめない」と言うのであろう。ここには、初枝さんの皇国的な立場からの、自立的で主体的な平和を求める姿勢が表現されている。
 女子青年団の一員として、最後まで日本勝利のために死力を尽くした初枝さんは、手記の中で、彼女自身が正気を逸していたとを認めている。しかし、「日本軍将兵」に関しては「死闘」を描き、彼らの思考や行動の問題点については何一つ述べない。そのような記述は、手記執筆の本来の目的に反するからである。
 だが、初枝さんの批判意識は、政府や駐屯部隊、さらに村の指導者たちにも、向けられていることはいうまでもない。晴美さんの紹介によれば、戦後の初枝さんは、軍協力者として島民から白眼視されつつも、厚生省に対して援護法適用のための「証言」も行い、その主旨で手記も発表し、島を訪れる研究者や学生、旅行者たちに自宅を宿として提供し、「語り部」にもなった。時期が来れば「証言」内容を改め、梅澤隊長へも詫び、晴美さんに対しては、「歴史的な背景や当時の島民の動き」も踏まえた上で、手記を公表することを託す。
 これら、戦後における初枝さんの、一見分裂しているかに見える行動や発言は、政府や島民の意識とは距離をおいた、彼女自身の自立した批判精神に基づくものであり、初枝さんは、そのような彼女の視角をより明示的に表現する意図をもって、歴史研究者でもある晴美さんに、出版を託したのであろう。このように捉えるとき、私たちは初めて、初枝さんの生の思想にも、迫ることができるのではないだろうか。
○興味深い、宮城初枝の思想史的研究
 この度の、晴美さんによる出版は、母初枝さんとの約束を果たすためのものであり、また、私たちは、晴美さんの本を通じて、座間味島の歴史や宮城初枝さんという人物への関心を抱くことができた。
 だが、私には、初枝さんという人物の思想を知る上で、晴美さんの記述に対して、いくつかの要望や疑問がある。
 一つは、宮城初枝さんの思想形成に関わる記述が、ほとんどなされていないことである。初枝さんの柔軟で前向きな精神は、どのようにして形成されたのか、今後なお研究が進むことを期待したい。
 二つめは、「証言」の意味解釈に関してである。晴美さんは、初枝さんの旧い「証言」と新しい「証言」の違いを、「集団自決」命令の主体は誰であったかという点に焦点を当てて記述し、新しい「証言」こそが、初枝さんの本心であったことを、読み手に伝えようとしている。
 だが、はたして、そのような観点からの記述は、初枝さんが晴美さんに託した思いを、十分に伝えるものになっているのだろうか。
 晴美さんは、昭和天皇死去の際の母子の様子について、普段から社会情勢やニュースなど何でも話し合う関係にある二人が、「天皇の死については、母は私に意見を求めるでなく、自らの気持ちを語るわけでもなく、黙ったままだった」と述べ、また、「それまでにも何度か天皇を話題にした母との会話があったが、このことに関してだけは、お互いの価値観の相違は明らかだった。」(二七三頁)とも記している。このような記述は、晴美さんの母初枝さん理解が、いまだ、母の思想へ内在する視点には立てていないことを、示しているのではないか。
 初枝さんが記した旧い「証言」の最初のものは、一九六三(昭和三八)年四月号の『家の光』に掲載された「沖縄戦最後の日」と題された手記である。この手記は、簡単なリード記事の後、三月二三日以降、四月一七日の投降までの、初枝さんたちの「死闘の記録」(同誌、一〇六〜一一二頁、参照)が記されている。そしてまた、新しい「証言」でも、その本旨が、「日本軍将兵の死闘の体験手記」であったことは、すでに述べた通りである。すなわち、初枝さんにおいては、旧い「証言」においても、新しい「証言」においても、読み手に伝えようとしている本旨には変化がない。
 しかし、娘晴美さんは、母のこうした姿勢には、ほとんど関心を払っていないし、読者である私たちに注意を喚起してもいない。その結果、初枝さんの手記が私たちに与えるインパクトと、晴美さんによる母に関する解説とが、うまくかみ合っていない印象を受ける。
 三つめは、晴美さんの資料提示の仕方に対する疑問である。私が、このような思いを強く抱いたのは、「自決に追い込まれる」と題された初枝さんの手記を読んだときだった。この手記は、『座間味村史 下巻』(一九八九年七月)の「村民の戦争体験記」に収録されている。この村史下巻の発行は八九年七月であるから、この手記は、初枝さん自身の手になるものなのであろう。記述は昭和一九年一〇月一〇日、米軍機飛来の日から始まっているが、この手記では、すでに「集団自決」は村三役の要求であり、隊長はそれを拒否したことが明記されている(同書、一五頁)。つまり、初枝さんの新しい「証言」は、晴美さんの出版よりも一〇年以上も前に活字になっているのである。しかし、晴美さんが昨年出版した本の中では、この「自決に追い込まれる」という手記に関しては、何も言及がない。それはどうしてなのだろうか。
 また、この手記の最後は、初枝さんの次のような言葉で結ばれている。
 「戦後の民主主義や、今日の平和な世の中が築かれるためであったとはいえ、私たちはこの戦争で、あまりにも多くのものを失ってしまいました。とっても悲しいことですが、こうした多くの犠牲の上に今日の私たちの生活があるのです。だれもが、そのことを肝に命じ、二度と戦争を起こさないよう、みんなで国の政治を監視してほしいものです。」(同書、二三頁)
 初枝さんのこの言葉には、現代の日本が二度と戦争を起こさないようにする責任は、国民の側にあるのだという、初枝さん自身が戦争体験を通じて学び取ったところの、熱いメッセージが溢れている。しかし、晴美さんは、初枝さんの日記に記された天皇への敬愛については紹介しながら、このような初枝さんの批判精神や国民としての主体的な政治意識について記述しないのは、なぜなのだろうか。
 このような疑問を抱くとき、私は、晴美さんのこの度の出版は、いまだ母初枝さんに託された課題に対して十分には応えておらず、宿題をたくさん残しているように思う。
 とはいえ、晴美さんの仕事によって、宮城初枝さんに関する思想史的研究の糸口が与えられたことは間違いないし、私も大いに啓発されたのだが。

六 おわりに

 再び、町の図書館で沖縄関係の近刊本を読みながら。
・『「沖縄魂」が語る日本 「四十七番めの日本」から見た「祖国」の危機』の中で安仁屋さんは、「集団自決」を教科書に是非記述するようにと求めたのは、文部省の教科書調査官の側であったと述べている(八五頁)。文部省が、「集団自決」を行った民衆の心理の中に、国家に対する国民の忠誠心や愛国心を見ようとしている(八七頁、参照)のであれば、それは、無益な戦争のために命を犠牲にした、当時の軍民一体の狂気を直視しない、とんでもない解釈だとうのが、初枝さんの見方である。
・安仁屋さんはこの本の中で、軍隊による沖縄住民に対する残虐行為についてだけではなく、「地域のリーダーが率先して住民を殺したり、自殺に追い込んだりする」(一〇六頁)という事実にも注目している。このような安仁屋さんの視点は、初枝さんの捉え方と触れ合っている。
・『ウチナーンチュは何処へ 沖縄大論争』(大田昌秀ほか、実践社、二〇〇〇年)、『誰も書かなかった沖縄 被害者史観を超えて』(惠隆之介、PHP研究所、二〇〇〇年)では、沖縄関係の左右両翼の知識人・文化人による、沖縄の平和や教育のあり方、歴史の捉え方、経済や文化の自立、日本と沖縄、沖縄とアジアなどの関係のあり方などについて、活発な議論が行われている。それは、一面では、これまでの「ウチナー」(沖縄)とヤマトとの間のバリアーを超えようとするものであり、他面では、新たなる「ウチナー」としてのアイデンティティの模索である。
・活発な議論の中で、私の心を最も引きつけたのは、喜納昌吉さんの言葉である。私たちが、八月三日の夜、喜納さんのライブを楽しんだとき、彼は、唄の合間のトークで、アメリカ寄りの首相と中国寄りの外相の行動や発言に触れ、今後の日本の進路は、日本国民自らの選択にかかっていることを、私たち聴衆に説いた。その彼は、他方では、古い沖縄を美化する危険性も指摘しながら、「自分で思考して自分で作るという、アイデンティティが確立されないうちにはクロスオーバーできないような気がします。(中略)そういう意味では、沖縄の文化人というのは甘やかされてきたのではないかと思います」(『ウチナーンチュは何処へ 沖縄大論争』、二三五頁)と、活発な議論を展開している沖縄の知識人に対しても、批判意識を表明している。
 彼は、このような批判意識に基づいて、基地や暴力を廃絶し、人間同士、あるいは民族同士が、「違いを認めながらも、アイデンティティを尊重しあって、共生していく」「和合の精神」を、「東洋と西洋の文化の狭間に位置する日本」の「民族性」として自覚し、沖縄人がそのような「人類精神の模範」となることを期待している(同、二三六〜二四五、参照)。
・初枝さんと喜納さんの、日本と沖縄に真の平和を実現しようとする理想精神を較べると、忠誠対象は「天皇」から「人類」へと変化しているが、思考形式には共通性がある。この二人の自立的な批判精神に基づく平和主義は、私たちヤマトが学ぶべき、沖縄の思想文化の伝統なのではないだろうか。

 注
(1)このサイトのアドレスは、近々閉鎖予定との理由で、本稿への掲載が許可されなかった。しかし、このサイトに示されているものと近似の情報は、『座間味村史 上巻』(座間味村史編集委員会編、一九八九年)四一七頁に記載されている。数字は、サイト情報の方が新しいもののようである。
(2)このサイトのアドレスも、本稿への掲載は許可されなかった。しかし、サイト管理者からは、この情報は、大田昌秀編『これが沖縄戦だ』(琉球新報社)二五二頁からのものであるとのメールを頂いた。
(3)なお、宮城晴美さんは、座間味島の「集団自決」者は、一三五名であったと記している(宮城著、二七六頁)。
(4)このようなタイプ分けは、「集団自決」発生の原因を解明する上で有効ではないかと考える。しかし、「集団自決」が島民たちに遺した深い心の傷の問題は、それ自体として考察されなければならないことはいうまでもない。「戦没者だけではない。辛うじて生き延びたものの、心、体に傷を負い、いつまでも終わることのない戦後を生きた人がどんなに多かったことか。戦争の『被害者』であるはずの『自決』未遂者のなかには、親族に手をかけたことで『加害者』にされ「孤独」な余生を終えていった人もいた。」(宮城著、二七六頁)という晴美さんの記述は、島民たちの心の傷の一端を示して余りあるものである。
<付記>本稿作成の過程で、座間味島の又吉文江さんには、宮城初枝さんに関する貴重に思いでの一端をメールで知らせて頂くとともに、一般販売としては最後の一セットとなった『座間味村史』上・中・下巻を、私にお送り下さるために村役場までご足労頂いた。また、久米南町図書館には、資料の検索と取り寄せで大変お世話になった。これらの方々に、この場を借りてお礼を申し上げたい。
           (2007年5月1日改稿/みょうらく・まこと)