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韓国社会と儒教
   翰林大学校 池 明観氏

  中国の儒教は社会上層の思想だったが、朝鮮においては全国民的な思想であった。日清戦争以降には、「儒教こそ「亡国の主体」と見なす傾向が」決定的となったが、最近の儒学研究者は、そのう捉え方に批判的であり、池氏もその立場に立っている。「朱子学そのものではなくても儒教的エートスまたは丸山のいうガイステス・ハルトウング、精神態度は継承されたといえる」。「革命的オプティミズムまたは丸山のいう「連続的思惟」「道学的合理主義、リゴリズムを内包せる自然主義」が発想の底音、基調音として続いたといえる。思考の枠組みは同じであったが、それが含む内容は近代的な理念、即ち自由、平等、民主主義、人権、独立などに変わったといえよう。」(要旨、34p)
 池氏も、丸山の『日本政治思想史研究』(1952)をとり上げながら、「日本の儒学は近代へと脱皮したが、中国の儒教はそうではなかったというような近代主義的発想をそこに見出すことができるのではなかろうか。朝鮮またはアジアの伝統としての儒学が、近代史のなかでいかに葛藤し模索し苦悩したかについて、彼はそれほど理解を示したとは思われない。日本における儒学研究における近代主義的限界が、東アジアの新しいパラダイムにおいて検討されるようになるであろう。」(30p)と述べる。
 丸山の課題は「政治思想史」であり、国民の心情倫理とともに責任倫理へ強い関心が向けられている。そこには、日本人としてあるいは東洋人として、自らの内なる不合理性を対象化しようとする精神態度が貫かれている。私はこのような丸山の積極面にももっと光があてられるとよいと思う。しかし、日本思想史学会では、むしろ丸山の弱点=丸山批判が強調されているように思う。
 以下は、報告の概要。
○文治国家の問題
 668年の三国統一の頃から新羅は脱戦士社会に向かいはじめていた。735年に中国は大同江以南における新羅の支配をみとめ、このとき朝鮮が中国の脅威にならない一種の非武装国であることが運命づけられた。伝統的土着文化の放棄と唐の儒教文化への自己同一化。14世紀以降の朝鮮朝における儒教体制の確立と、漢民族との友好関係。武力を持たない朝鮮王朝の、国民への儒教倫理の徹底化。
 朝鮮朝は、自らを「小中華」、日本を「化外」の民と思う華夷観を抱いた。
○革命の思想としての儒教
 「朝鮮の朱子学はすでにその出発において革命の思想であった。高麗は崇仏・崇儒併用の政策を取っていた。しかし時がたつにつれて仏教は退廃してきた。1286年安裕は忠烈王とともに元に赴き朱子全書と孔子、朱子の画像を持ち帰った。・・・・高麗における科挙制度は958年に布かれたが、混乱のなかで、1369年ようやく恭愍王の改革政治の旗印と共に復活した。そこで朱子学を身につけた新進儒者官僚たちが登場」し、「土地は豪族や寺院に占有されているので、彼らは批判的にならざを」えず、「ここで時弊革新論、田制改革論、斥仏論などが台頭し、彼らは反元親明の傾向をおびた。この勢力が武人李成桂と結び高麗朝を倒して朝鮮王朝をうち立てた」。(31p)
 新進の儒学官僚は、朱子学の中でも、政策論(経世治国、治国恵民)を重視したが、他方では道学、倫理学に重きをおいたものもあった。その代表は鄭夢周(1337-1392)嶺南学派が重んじられ、そこからは朝鮮儒教の完成したといわれる李退渓(1501-1570)もあらわれる。
○抵抗の思想としての儒学
 18世紀後半から19世紀前半に、改革思想としての改新儒学即ち朝鮮実学が出現。「彼ら実学者たちは朱子学イデオロギーのなかにあって、巧みなレトリックを使って儒教的王道政治のために語るのであるが、すでに脱朱子学的傾向をあらわにしていた」。最高峰は丁若ヨウ(1762-1836)
 朱子学的思想から外勢、特に日本の侵略に抵抗する思想が生まれた。李恒老(1793-1868)、崔益鉉(1833-1908)
☆朝鮮儒学の「忠君不仕二君」について。「父子天合 君臣義合」であり、「義の合せざるときは去る」ことが正しいとされた。吉田松陰の姿勢とは異なる。「朝鮮朝の儒者は正しい道としんじていることが入れられないと、しばしば官を去って野に下るという落郷の道を選ぶ・・朝鮮朝末期においては時勢を嘆いて多くの優れた儒者たちが仕官することを避けた。ソンビというのは「学識があっても官に仕えない人」といわれるが、彼らは「科挙を潔しとしない態度」を持し、かえってそのことを誇っていた。彼らは亡国家よりも亡天下、即ち王朝国家を超えた儒教的道徳的秩序の消滅を憂えたと」。(33p)
 朝鮮では「在野の尊敬される儒者のアピールに多くの儒者知識人が連帯し、これに民衆が合流することによって政治的変革が起こる」「これは韓国近現代史を彩った政治的変革の図式であるといってもいいすぎではない。」(34)
○現代における儒学の問題
 現代の韓国において儒教的エートスは、反覇道的王道政治の理念として、
1 文民統治の問題
2 三国鼎立論
があげられる。
 中国の王朝国家は武人ではなく儒教的教養を見煮付けた文民によって行われ、「中国は対外関係においてほとんど侵略するところがなく防御的であった。」
 1919年の3・1独立宣言における3国鼎立論(日本は侵略の邪路から出て東洋支持者としての重責をまっとうし、東アジアの3国が鼎のように支えあうべきだという発想)は、近代朝鮮の知識人が共有した悲願であった。このような「3国同等の連帯の上に立つ東アジアの秩序という考えは文優位の儒教国として中国の周縁にあって日本の脅威にさらされてきた韓国的発想である」。(35)
 池氏のいわれる韓国儒学における「革命思想」「改革思想」「抵抗思想」「文民統治」「3国鼎立論」の思想史的分析が必要だと思われる。文治主義の非侵略的性格を語る時、池氏には、中国や韓国の国家権力の問題はどのように捉えられているのであろうか。前近代社会では中国でも朝鮮でも、中央集権的な国家権力を背景とした経済外的強制の機能する社会であった。文治主義というのは一面でしかないのではないだろうか。近代において、中国や韓国の、ベトナムとの関係はどうだろうか。ベトナム戦争に加担した韓国は、ベトナム人から見れば、侵略的と写っているだろう。儒教的平等論は、そのままでは東アジア4国の真に平等な連帯を構築することはできないのではないだろうか。(11/01/00)
「武国」日本のなかでの朱子学の役割
       愛知教育大学 前田 勉氏
 前田氏は、韓国儒家李華西と日本の山崎闇斎とを例示し、「国家の存亡」と「儒教盛衰」の内、闇斎は「国家の存亡」を李は「儒教盛衰」を選択する点において、両国の儒教の性格の違いを指摘された。同じく朱子学を学びながら、なぜこのような差異が生じたのか。
 それには、「中国との友好関係を求めるためにも非武装化して、朱子学を統治イデオロギーとして採用し、科挙制度を敷いて、読書人官僚である両班が支配した」李氏朝鮮と、武士が支配した日本との、両国家の性格が大きく関与している。
 「武国」観念は、「日本は「武国」であるがゆえに、儒教の理想とする王道政治は日本の現実政治には役立たないし、また武士の勇壮な大和魂にも反する」とみなす、「自国・自民族優越意識」であり、兵学者たちがこの「武国」観念を強調した。
 前田氏は、山鹿流兵学者津軽耕道を引用しながら、武威の支配は「「理」よりも「法」を優先する専制政治を意味」
していた。「「武国」日本は東アジア地域が共有していた「普遍的な」礼教文化ではなく、戦時の軍隊の統制法である「軍法」によって秩序が維持されていた軍事国家」(41-42)であったという。
 そして、そのよな「武国」観念の下では、「普遍的原理として朱子学を受けとめる傾向」にあった「真面目な儒者」たちは、「無用者・異端者」あり、「江戸時代の儒者はそうした空威張りの優越感への批判者としての位置に立ちえた」という。(43)(かなり一面拡大のきらいのある見解のように私は思う。)
 前田氏は、「朱子学の理想主義が「武国」に対して積極的な役割を果たしていた」「自力救済力としての朱子学の性善説のなかに、近代的な「自由」と「平等」という価値の萌芽」を見る。(43)
 その実例として前田氏は、朱子学者古賀どう庵(1788-1847)をあげ、彼がアヘン戦争におけるイギリスの「非理無道」を指摘しえたのは、「何よりも彼が華夷観念を普遍的な理念として受け取っていたことによる」。ここには、「韓国の反日義兵運動の指導者李恒老と共通する精神態度」がある。
 また、どう庵は、清朝の失策も指摘し、「中華の華夷観念のもつ独善性に対する批判ばかりか、それと表裏の関係にある一元的な価値観への批判」もあった。「他の諸民族に共通する太陽信仰のひとつとして日本の天照大神信仰をとらえる視点も」もっていた。このどう庵の延長線上にあるのが、古賀の弟子だって阪谷素の「尊異説」。彼は、「攘夷論に集約されるような武威の日本型華夷観念(会沢正志斎の『新論』はその典型でした)の脆さを批判するとともに、さらにいえば、同一化を志向する中国本来の華夷観念さえも超え出る可能性をもっていた」。「幕末の朱子学者が「万国公法」を受容しやすかったひとつの理由は、その理念性・道理の存在にたいする信念」だった。(45)
 このように、前田氏は、日本の「武国」観念=日本型観念、さらに中国の華夷観念をも超出しうる可能性を、朱子学の中に見い出そうとされている。
21世紀における新儒教研究
       東洋大学 吉田公平氏
 3名の報告の後、吉田氏は、日本の新儒教研究史を3期に分けて解説された。
○第一期・江戸時代
 「武士が文官を世襲したために兵学と共に儒学を文治の学として兼学した」「性善説が自力救済論・自己実現論として受容され」「広義の「心学」が江戸時代の思潮の基層を形成する」「朱陸の是非を性急に議論する傾向」
○第二期・明治・大正・昭和前期
 臣民教育の手段として儒教の教理が活用され、儒教が国民レベルにまで浸透普及した。新儒教理解は幕末期よりも低下。西田哲学にみるように、新儒教の政治哲学が活用されなかったために京都学派には政治哲学が成熟せず、東洋哲学(新儒教)は国体論に絡め取られた。
○第三期・昭和後期以降
 「朱子学は封建思想(前近代思想)であると決めつけられたために、朱子学そのものの原理を明らかにしようとする試みが等閑視された。(丸山真男など)」「陽明学に自由・欲望等の肯定をみて近代思惟の萌芽と評価する研究が登場するが(島田虎次)、政治思想の視点からの研究が主流を占めた」「仏教と儒教を貫通する思考方法を追求した研究がなされ、教派の枠から自由になった哲学的研究が生まれた(荒木見悟)」
 21世紀の研究への期待1から7まで。(省略)
 「儒教思想が基本的人権の思想を育まなかったことは明白である。だから、哲学的資源としての有効性を考えようという提言は、新儒教を丸ごと復活せよというのではない・・・さりながら、新儒教思想が時運を推進した社会の延長に、今の我々の社会はある。我々が無自覚なだけで、かつて新儒教に培われた伝統文化が形を変えて根強く残っているのではないのか。その旧習を弁えるためにも、そしてその事実を確認して新たな模索をするためにも、資源としての可能性の有無を考察の中に入れて研究することが、我々の課題の一つではないのか。」(39)
 
 吉田氏も、新儒教の中にこれからの東アジア世界の構築に活かされるべきものを読み取ろうとされている。しかし、吉田氏は、他の報告者たちほどには、直接的な朱子学肯定論は述べられていない。また、吉田氏の新儒教研究史整理は簡潔で分かりやすいものだった。
 現代の日本思想史学会の基本的なテーマは、この度の学会参加で知ることができた。
 報告者たちは、新儒学の中に、封建的支配のイデオロギーとは原理を異にする近代的・普遍的思想を検出されようとしているのであるが、それらが、本当に近代的・普遍的なものと確定できるかどうかは、もっと精密な検討が必要なように思う。
 また、逆に言えば、現在の日本思想史学会の方々が念頭においている「近代」概念自体も、私自身改めて勉強しなおす必要もあるように思った。丸山の言う「近代」と、今の学会思潮の「近代」とは、タームは同じでも意味する内容は随分と異なっているのではないか。丸山から見れば、「近代的思惟」などとはとても見えないものが、学会の方々には近代的と見える面もあるのではないか。
 
 兎も角、今回の学会参加は、現在の学会思潮を知る上でとても勉強になったし、学問の進歩と領域の広大さを知らされた。私の新島論を始めとしたこれからの思想史研究におおいに活かしたいと思う。(11/5/2000)

backexit